国領って、どんなまち? (―国領は田舎のまち?―)
国領の個性とは? (―国領は郊外の住宅都市?―)
布田五宿って、なんだろう? (―国領は甲州街道の貧しい宿場町?―)
国領という地名の由来は? (―どうも歴史的な? 地名―)
国領駅と京王線の開通は? (―駅はかわる?―)
戦中戦後の街のかたちは? (―この頃できたの? 現在の市街地形成―)
現在の商店会に至るまでは? (創立50年以上!!)
いま、調布・国領について
![]() 平成9年頃の国領駅南東側
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■国領って、どんなまち?(―国領は田舎のまち?―)歴史的に見ると江戸時代からつい最近まで甲州街道沿いに上国領・下国領という呼び方もあったようですが、現在の町丁域から多摩川流域辺り(染地・布田の一部)までが大体その範囲となります。 国領を、人はよく住んでいる人共々「変わり栄えしないまち」とか「田舎町」とも言いますが、利便性のある街とも適度に田舎の町ともまちとも言うにしろ、「これといって特色のない」「中庸でおだやか」「没個性的」な側面がとかく強調される調布全体の歴史と、無縁ではないようです。 |
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![]() 昭和32年頃の狛江通り南西側 (当時の国領神社祭礼風景) |
■国領の個性とは? (―国領は郊外の住宅都市?―)「調布市は、布田五宿と言われるように、甲州街道の宿場町としての市街地形成から都市化の歴史は始まっています。 ここ国領にあっても、布田五宿の一つが国領であったことから、上記のような経緯と住宅都市としての性格を国領の歴史的個性としてもち、今後の課題としても共有するものです。 |
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![]() 昭和32年頃の国領駅(踏切り北西より)
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■布田五宿って、なんだろう?
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![]() 昭和40年頃の国領駅(踏切り北西より) |
■国領という地名の由来は? (―どうも歴史的な? 地名―)『新編武蔵風土記稿』によると、国領という地名の由来は、平安時代の荘園制度下、地方豪族が官位を得るため朝廷に献上した土地(御料)(あるいは国衙の領となった土地〈国司―在庁官人が治める土地〉)から国領とした説と、一方では幕府の直轄領として飢饉に備えた屯倉(とんそう、米・穀物倉)があったためとした説があります。 さらに「その昔、国領宿は現在(風土記編纂の頃)よりもっと南の多摩川畔のアシやヨシが茂っていた所にあったが、正保・慶安年間に甲州街道が現在地に移った際、住人も一緒に移ったという。 |
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![]() 第7中学構内にある旧路線軌道敷跡 |
■国領駅と京王線の開通は? (―駅はかわる?―)京王線は大正2年(1913)4月に笹塚―調布間12.2kmが開通し、同4年5月新宿―調布間16.1km、翌5年6月多摩川原、10月には府中まで開通します。 |
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![]() 昭和49年頃の狛江通り (南西側より踏切り付近を望む) |
■戦中戦後の街のかたちは?
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![]() 昭和62年頃の国領駅 (南西側上空より駅舎を望む) |
■現在の商店会に至るまでは?(創立50年以上!!)戦後復興から高度成長期まで、国領地域もまた他の日本の諸地域と同じように経済成長=社会価値の道をひた走っていきます。 これに翳りが見え始めたのが、昭和60年代初頭頃です。 |
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![]() 平成23年8月の国領駅前 (南東側より踏切り付近を望む) |
■いま、調布・国領について昭和から平成へ、そして現在へと、国領の街としてのインフラの整備が進むなか、時代は大きく変化を遂げました。国領町の変化は、京王沿線仙川駅周辺の土地区画整理事業と並んで顕著なものがあります。昭和60年頃より動き始めた法定再開発事業と近年の民間大型住宅開発がそれです。南口にあっては、国領駅南地区第一種市街地再開発事業が平成14年完了し、北口においては北地区第一種市街地再開発事業が平成18年完了しました。 このように街としての利便性が高まっていくと、民間による大型住宅開発などが進み、必然的に現在の国領は多大な人口流入を見ています。さらに、住宅とあわせて大型商業施設の開発も進みました。具体的には南口のマルエツ、北口の西友に加えて、南国領のイトーヨーカ堂などがそれです。 |
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