国領の紹介

平成9年頃の国領駅南東側
平成9年頃の国領駅南東側

平成16年2月の国領駅(踏切り北西より)
平成16年2月の国領駅(踏切り北西より)

■国領って、どんなまち?(―国領は田舎のまち?―)

歴史的に見ると江戸時代からつい最近まで甲州街道沿いに上国領・下国領という呼び方もあったようですが、現在の町丁域から多摩川流域辺り(染地・布田の一部)までが大体その範囲となります。
これは現在の国領駅を中心に半径約1kmの円を描いた中に入ります。
現在の国領町が、昭和30年(1955)4月の調布町・神代町の合併により調布市となって以後、都市化の進展とともに従前の大字名や飛地・入り組んだ町割りを1~8丁目として町名地番整理されたのが昭和41年(1966)3月のことです。

国領を、人はよく住んでいる人共々「変わり栄えしないまち」とか「田舎町」とも言いますが、利便性のある街とも適度に田舎の町ともまちとも言うにしろ、「これといって特色のない」「中庸でおだやか」「没個性的」な側面がとかく強調される調布全体の歴史と、無縁ではないようです。
あるいは、現代の郊外都市全般に共通していることの反映とも思えます。

昭和32年頃の狛江通り南西側(当時の国領神社祭礼風景)
昭和32年頃の狛江通り南西側
(当時の国領神社祭礼風景)

■国領の個性とは? (―国領は郊外の住宅都市?―)

「調布市は、布田五宿と言われるように、甲州街道の宿場町としての市街地形成から都市化の歴史は始まっています。
その後、京王線の開通や関東大震災の発生等により、郊外の安全な住宅地として注目され、宅地開発が進みました。
こうした経緯から、駅周辺及び旧甲州街道に沿って商業集積があるものの、住宅都市としての性格を強く帯びています。
今後まちの活力を維持し、財政基盤の安定化を図りつつ、分権時代にふさわしい自立した都市をめざすためには、商業や工業等、産業の振興が大きな課題」であり、京王線連続立体交差事業などの中心市街地(旧甲州街道を軸に国領、布田、調布の3駅周辺を中心市街地に位置付けています)の整備にあわせ、商業等の活性化を一体的に、総合的に推進する必要があります。

ここ国領にあっても、布田五宿の一つが国領であったことから、上記のような経緯と住宅都市としての性格を国領の歴史的個性としてもち、今後の課題としても共有するものです。

昭和32年頃の国領駅(踏切り北西より)
昭和32年頃の国領駅(踏切り北西より)

昭和34年頃の国領駅(狛江通り南側踏切りより北を望む)
昭和34年頃の国領駅
(狛江通り南側踏切りより北を望む)

■布田五宿って、なんだろう?
    (―国領は甲州街道の貧しい宿場町?―)

国領という地名が文献に現れるのは、江戸時代の文政9年(1826)に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』が最初と言われています。

「国領宿ハ郡ノ東ニアリ郷庄ノ唱ヲ失フ、布田五宿ノ一ニシテ甲州街道ノ駅場ナリ、日本橋ヨリ行程六里、毎月二十四日ノ夜ヨリ晦日マデ、当宿ノ主務トシテ旅客ノ人馬ヲ出スコト例ナリ」(6里は約23km)とあり、以下続きます。
大略は、国領宿は東は金子村、西は下布田宿、南は上ヶ給村、北は佐須柴崎に接し、東西9町(約980m)・南北24町(約2.6km)の細長い宿場であったこと、地形は平坦だが下布田北浦(現在の北浦)と呼ばれた土地が国領の中に張り出していたために上国領・下国領の二つに分かれていたこと、当時の街道両側には民家が62軒並んでいたことなどです。
ここでいう甲州街道は、江戸時代五街道の一つ、日本橋から甲府まで後に下諏訪まで33次の宿駅が置かれましたが、街道沿いの村は小村が多く、複数の村で一宿分(人足25人・馬25匹)を受けもつ打込勤(うちこみづとめ)の宿場が多かったそうです。
布田五宿もその一つで、五宿とは国領を起点に下布田・上布田・下石原・上石原の順に並び仙川村と小島分村に一里塚が置かれていました。街道開通・人馬継立てのためにはけ付近から農民が移住させられたため、調布「最初のまちづくり」とも言われています。

昭和40年頃の国領駅(踏切り北西より)
昭和40年頃の国領駅(踏切り北西より)

■国領という地名の由来は? (―どうも歴史的な? 地名―)

『新編武蔵風土記稿』によると、国領という地名の由来は、平安時代の荘園制度下、地方豪族が官位を得るため朝廷に献上した土地(御料)(あるいは国衙の領となった土地〈国司―在庁官人が治める土地〉)から国領とした説と、一方では幕府の直轄領として飢饉に備えた屯倉(とんそう、米・穀物倉)があったためとした説があります。
いずれにしても、当時の「国」家と縁深いものがありそうですが、たしかなことはわかりません。

さらに「その昔、国領宿は現在(風土記編纂の頃)よりもっと南の多摩川畔のアシやヨシが茂っていた所にあったが、正保・慶安年間に甲州街道が現在地に移った際、住人も一緒に移ったという。
旧地は皆水田となった」とも記されていますが、前述のはけからの移住を物語っているものです。

第7中学構内にある旧路線軌道敷跡
第7中学構内にある旧路線軌道敷跡

■国領駅と京王線の開通は? (―駅はかわる?―)

京王線は大正2年(1913)4月に笹塚―調布間12.2kmが開通し、同4年5月新宿―調布間16.1km、翌5年6月多摩川原、10月には府中まで開通します。
開業当時、現在の国領駅という駅名は北浦であったり国領であったり、何度か変遷をします。
また、軌道は当初甲州街道の北側を走り、現在の軌道と駅の位置になるのは昭和2年(1927)12月のことです。

昭和49年頃の狛江通り(南西側より踏切り付近を望む)
昭和49年頃の狛江通り
(南西側より踏切り付近を望む)

■戦中戦後の街のかたちは?
   (―この頃できたの? 現在の市街地形成―)

第二次大戦前、とくに関東大震災以後、調布市域には工場が進出してきます。
ここ国領にも昭和4年(1929)に丸源製鋸所が工場を開設しますが、とくに戦争がはじまった昭和13年に工場進出した代表が東京重機です。
小銃を生産する軍需工場として建てられ、最盛期には4,000人を超える従業員を擁し、徴用・学徒・勤労動員などで維持されていたそうです。
当然、周辺に宿舎が立てられ集住させられることとなりました。
昭和20年(1945)5月のB29による東京大空襲により、国領と上ヶ給にも油脂焼夷弾が投下されたこと、4戸焼失・2名が死亡したことは、今も町の古老から聞きます。
戦後、これらの宿舎が戦地からの引揚者住宅として使われていたそうです。

この頃、現在の市街地のおおよそが形づくられました。

昭和62年頃の国領駅(南西側上空より駅舎を望む)
昭和62年頃の国領駅
(南西側上空より駅舎を望む)

■現在の商店会に至るまでは?(創立50年以上!!)

戦後復興から高度成長期まで、国領地域もまた他の日本の諸地域と同じように経済成長=社会価値の道をひた走っていきます。
人口増加、それに伴った文教施設・インフラ等整備が後追いながらも進み、昭和49年第6中学校開校、同52年より始まる都営くすのき住宅入居、同54年の国領小学校開校等々、また商店会の構成会員数も多いときは130軒を超えるまでに至っていました。

これに翳りが見え始めたのが、昭和60年代初頭頃です。
当時の商店会『創立30周年記念誌』の巻頭に「私たち小売商業者をとりまく商業環境の変化は最近とみに著しいものがあり(中略)、商店街診断を実施して勧告を受けておりますが、診断内容と勧告を見ても、各個店の内部的努力と同時に商店街内の車輌の通行量の緩和対策、再開発等がこれから取り組んでゆかなければならない重要な問題点と認識いたしました」とあります。

平成23年8月の国領駅前(南東側より踏切り付近を望む)
平成23年8月の国領駅前
(南東側より踏切り付近を望む)

■いま、調布・国領について

昭和から平成へ、そして現在へと、国領の街としてのインフラの整備が進むなか、時代は大きく変化を遂げました。国領町の変化は、京王沿線仙川駅周辺の土地区画整理事業と並んで顕著なものがあります。昭和60年頃より動き始めた法定再開発事業と近年の民間大型住宅開発がそれです。南口にあっては、国領駅南地区第一種市街地再開発事業が平成14年完了し、北口においては北地区第一種市街地再開発事業が平成18年完了しました。

このように街としての利便性が高まっていくと、民間による大型住宅開発などが進み、必然的に現在の国領は多大な人口流入を見ています。さらに、住宅とあわせて大型商業施設の開発も進みました。具体的には南口のマルエツ、北口の西友に加えて、南国領のイトーヨーカ堂などがそれです。
いま、ますます高まる利便性と暮らしやすさがどう調和していくのかが、大きく問われています。とくに地域商店街としての今後の活路が、注目を引いているところです。